山根一純の「伴天風水」デザインで
たてる住宅

風水で新築して良い土地、悪い土地

2023年10月09日

「伴天風水」創設者の山根維随です。

今回は、風水で新築して良い土地、悪い土地について、お城(高知城)と過去の災害(関東大震災)を例に、お伝えします。

天守閣2.jpg


■風水で新築して良い城、悪い城

土佐の高知市に行きました。
すぐそばに高知城が高くそびえ見えたので、上って見ることにしました。

資料によると、日本に現存する古い城は12城しかない内の一つがこの高知城でしたから風水的に良いのかどうか検証してみることにしました。
道路から広い庭に入ると、広い庭の奥に古めかしい追手門が大きく扉を開いて迎えてくれました。
 
その木組みや、梁の入り方をじっくり研究する。

重い門を支える鉄のヒンジの止め方に魅入ってしまいます。

その先は広い石の階段が左右の5メートルもの高い石垣に囲まれている中を、一段一段登り始めました。

門の方を振り返ると、門の外の一角に案内所を見つけました。
 
「折角だから案内の人を頼もう。」とその案内所に引き返しました。

有難く案内をお願いすると、お年の割には元気に階段をお登りになる。

「この城は雨水の処理用の樋が、石垣の間にあります。こんなに樋の数が多いお城は他に例が無いです」と言いながら、ずんずん登っていく。

石垣を大きく右に折れると、その上の三の丸の広場に出る。三の丸は結構広い建物だったのだな、とその大きさに驚きました。

三の丸は風水的には余り良い環境では無いようです。殿に近い上級家臣が住んでいたそうです。

石垣を更に5メートル位登った上が二の丸になっています。

ここは殿の住居であって、常に眼下に城下の町を見下ろしていた。この二の丸の位置も、風水的に良くない。

本丸の天守閣は二の丸の上5メートルの所に高くそびえています。
 
天守閣の入口は本丸御殿となっていて、そこには来客接待のための食事をする座敷が奥にあります。

その来賓接待の品のある座敷を出て、いざ本丸に登ると、そのボランティアの案内の方が言うのです。

『このように昔のままの天守閣が残っている城は、全国で12城です。更に本丸御殿が現存している城は、なんとこの高知城だけなのですよ。しかも二の丸、三の丸の図面も残っています。』

その図面を拝見すると、風水的に殿に大変良くない。

だから「殿には良くないですが、山内一豊さんはどうでしたか?」とお聞きすると『海の方の城で生活されてて、ご自分で城をお造りになったのです。1603年頃、新高知城に入城されましたが、入城1年足らずでお亡くなりになりました。』

「やはりそうでしょう」と私が言うと『何かあるのですか?』と問われるので「風水的に殿に良くないのです。」とお答えしました。

「山内容堂(山内豊信:幕末の坂本龍馬の時代の殿)さんはどうですか?」
とお答えしました。

更に聞くと「44歳でお亡くなりになりました。殿の中には15歳や14歳で亡くなった方も居ます」とお話になります。
実はこの城は、風水的に殿には大変不吉なのです。

暗い城の中を幾階も上りながら、山内容堂の人生の不運さを細かく教えて下さいました。

『容堂はその発言が過激と判断され、幕府から謹慎させられました。 27歳頃から城の南500メートルあたりのあの小さい山の前に何年もいらっしゃいました。』

と眼下の小山を指示して語りました。とても知識が豊富な方で感謝しました。
ふと上階に上ると、そこが天守閣の最上階でした。

少し古びた床や柱を通して、眼下に高知城下の町が四周に広がっています。

その日はとても暑い日なので、窓からの暗い質素な空間に入ってくる風が涼しくて、これこそが天守閣の風なのだと、少し古い時代に思いを寄せました。

素朴で素晴らしい高知城を出てから、先程の案内者から聞いた殿の生涯を調べてみることにしました。

高知城は素晴らしい威容を誇る城ではあるが、風水的に殿には良くない環境だったから殿の寿命はどうだったのか、資料を集めました。

高知城主は山内一豊(1545年生まれ)から16代341年間(歴代の殿の寿命の合計としました)続いています。

(1) 
初代城主山内一豊から4代山内豊昌までは、寿命が60歳、74歳、60歳、59歳 (死亡年齢は満年齢か数え年の捉え方で資料によっては1歳違います)と長寿です。

(2) 
①5代の山内豊房から8代山内豊敷までは、寿命が34歳、46歳、14歳、55歳と比較的短命です。
②8代の山内豊敷が13歳で城主になり、直後の15歳の年に城が全焼し37歳までは仮の住居に居住しました。

1749年再築が終わり、豊敷は1年間だけ新築の城に居住しました。

(3)
その後、今現在図面が現存する二の丸に住んだのは9代 山内豊雍から16代山内 豊範の8人の殿です。

①この現在の二の丸は50歳前後から上の年齢になると、殿にとって少し良い住居環境 となる事から、12代山内豊資77歳を例外として計算してみます。

②すると、その7人の寿命の合計247歳÷7=35.3歳

つまり土佐藩の城主7人の平均寿命は35歳となります。

8人の城主の在位(殿であった年数)数は126年÷8=16年 豊資を除いた在位年数は71年÷7=10年となります。

土佐城主7名の殿在位年数10年、平均寿命35年です。

なんと、土佐藩主の寿命は、二の丸の風水の悪さと比例して、短命となっていたのです。

(4) 
①これに対して、風水を少々取り入れた江戸城主の場合は、15人の将軍から7代将軍、家継7歳を除いて計算すると758歳÷14=55歳 平均寿命55歳   

将軍の在位年数(371年-7)÷14≒26年

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簡単な計算ですが、徳川幕府の将軍と土佐藩主の寿命の差は、1.6~在位で2.6倍と 風水の良し悪しが、将軍や土佐藩主の寿命の差となっていることが解りました。

土佐城と江戸城の風水の良し悪しについてもっと詳しくお知りになりたい方は、「風水家づくりセミナー」にご参加ください。

https://www.mokumoku-mura.com/reservation/


■風水で新築するのに良くない土地(関東大震災編)

実は、風水から見て家を建ててはいけない土地と、新築して良い土地があります。

1923年9月1日昼12時頃、震度6の地震が起きました。 マグニチュード7.9と推定されています。
   
東日本大震災の津波があった2011年3月11日の震度は7でマグニチュード9と比較する
と関東大震災の1000倍です。

2016年に起きた熊本地震は震度7、マグニチュード7.3ですから、関東大震災は熊本地震の8倍程度であったと考えられますが、私が熊本地震の際に被害の最も大きかった益城市で見た被害状況と、関東大震災の時に映像フィルムに残された被害状況はほぼ同じように見えました。

最近の瓦の施工方法は、屋根に桟木を横に打ち付け、それに瓦を引っ掛けて、針打ち止めしています。
図1(引掛け桟瓦葺工法)

それ以前は、野地板に赤土を屋根塗面に厚く敷き、その上に瓦を置いていました。
図2(土葺き・ベタ葺き工法)

大正時代の簡単な屋根は、野地板の代わりに杉皮を敷き、その上に赤土を10cm位の幅で横に敷き、瓦を引っ掛ける。
図3(土葺き・筋葺き工法)  

スクリーンショット 2023-10-17 153311.png
 
熊本地震では図2の瓦屋根が全て落下しているのに対し、関東大震災では図3の瓦が4分の1程度ずれ落ちていますが4分の3は残っているのを映像で見ると、関東大震災は熊本地震より少し弱く、マグニチュード6.8程度であっただろうと思われます。

このように熊本地震は関東大震災より強い地震でありながら、死亡者等の被害が少なかった理由は

①熊本地震は関東大震災の教訓から、屋根の瓦葺き方法等の建築方法の改善があったこと。

②関東大震災はちょうど昼12時2分前に発生したので、昼食の準備のために火を使用していた家庭も多かった、と考えられます。

その少数の家屋から火事がポツリ、ポツリと発生しました。

小さい火事は地元の消防により消し止められたのでしょうが、東京都内の10箇所程では消火が進まず、火災が拡大していきました。

折しも9月1日~3日と10~22メートル/秒を超える強風に煽られ、火災が拡大していきました。

特に強風に飛ばされた火の粉が、屋根下味の杉皮(地震で瓦がずり落ちて下地の杉皮が露出)に付着して燃え上がりました。
(その様子が映像で残っています)

このようにして遠くの家々が徐々に燃え始めました。

その数時間前の映像では、通りに面している家々に殆ど被害は見られませんでした。人々は笑顔で談笑しています。

それから暫くたって、何か危険を感じた人々が二階から家具や布団を窓越しに下におろしている映像が見られます。

その家財と布団を大八車にいっぱい積んで、右往左往している映像が出てきます。
両国国技館近くにあった陸軍の被服廠(ひふくしょう)跡(工場)は、大変広大な敷地だったので、警察がそこに避難誘導をした。

ホッとして土管の束の上に人々が座っている映像がある。

その1時間後には火災旋風(火の竜巻)が発生し、殆ど全員の38,000人が焼死しました。

一人の若者だけが、『中央付近に移動し、人々の下でたまたまあった水溜りに顔をつけたまま気を失った。火が収まって誰かに水を頂いて、やっと気が付いた』 と手記を書いています。

永代橋などに避難した方々でも、多くの焼死者が出ました。

(3) 
①東京市内の火災による損失割合は、東京市15区のうち、6区(日本橋区等)が83~100% と大変多かった。(東京の全人口385万人)

②関東大震災の全死者10万5千人のうち、東京における死者数は7万人で焼死者66,521人、家の下敷きでの死者3,546人ですから95%が焼死者でした。

③地震により出火した件数は関東大震災は134件で、阪神淡路大震災の285件より少ない。

(4) 
この関東大震災で被害にあわれた方、亡くなった方は、風水の観点において、住んではいけない『大凶』の地域の方々でした。

風水では、長い歴史の中で、自然災害に遭いやすい場所を、統計的に調査し、理論化したものです。

風水的に住んではいけない土地、風水からみて家を建ててはいけない土地がある訳です。

風水が良くない土地に新築してはいけません。

新築する土地は、しっかりと風水から考えた新築しても良い土地を選びましょう。

関東大震災の教訓から風水的に家を建ててはいけない土地、家を建てても良い土地はあるのです。

さらに詳しくお知りになりたい方は「風水家づくりセミナー」にご参加ください。

 

この記事の執筆者

山根 一純

もくもく村創始者
NPO法人 幸せな家づくり
研究会理事長

山根 一純やまね いずみ

昭和60年4月、環境保全業を立ち上げると、日本でも住環境が注目されるようになり、私は意を決して「もくもく村」を創設しました。健康な生活は住まいからという信念で、当時問題となっていた「シックハウス症候群」を一切排除しようと立ち上がったのです。

元来、日本には春、夏、秋、冬という季節に合わせた先人たちの住まいの工夫がありました。今では生活が便利さを追求するあまり、私たちの身の回りには化学物質があふれ、かつてはなかったような病気に悩まされています。それは私たちの生活の基盤である「住まい」にまで及んでいます。

新築、リフォーム、転居などで、住宅に使用されるホルムアルデヒドなどの化学物質によって引き起こされるアレルギー症状が、今でも私たち、子どもたちを脅かしています。安価で便利な化学物質を使用した工業製品による健康被害をどう解決していくべきかという問題は深刻なのです。

私は、日本の四季に合った、住まう地域に合わせた先人たちの住まいの知恵を取り入れた家づくりに注目しました。森に囲まれた自然環境と暮らしの展示場「もくもく村」を開設したのは、私のそんな思いからなのです。

ご来村された皆さんに、「健康で幸せな家族」になるためには「安心できる家」があってこそ、という思いを共有していただきたいからです。そのために、行っているのが有害な化学物質を一切排除し、工務店では不可能に近いといわれる「完全無添加住宅」のご提案です。

風水デザイン設計で細部までこだわるゆえに、柱の数の多さは、他社と比べてはるかに多い。どこまでも妥協しない家づくりです。住む家族みんなが自然素材の持つエネルギーにつつまれて、心身そのものが本来の健やかさを取り戻します。

さらに「水や木にも心が宿る」言霊を信じている私にとって、住まうご家族のことを思う心を一本一本、新築の木々に念願することによってご家族をお守りすることができることを強く信じております。

このことは科学的根拠という領域をはるかに超えた、哲学的な直観領域です。その直感力を高めてくれるのが「私たちはおおいなる命の循環の中に在る」ということを常に感じさせてくれるこの地の大自然です。

「もくもく村」は、大地の匂いのする家づくりを皆様にご体感していただける唯一の森の中の総合展示場となっています。